アタイばっか

どうせ散るならこの場所で咲かせてみせよう恋心

精神病院のフィールドノート

mixiからの転載です。
【衝撃】閉鎖病棟を退院の日、他の患者さん達が入口に集まってきたのだけど、私は振り返る事が出来なかった・・・ : かぞくちゃんねる http://kazokuchannel.doorblog.jp/archives/48230120.html?p=2

長々書いといてあれなんですが若干閲覧注意気味です。

大学二年の後期、三ヶ月ほど精神科で入院していた。

精神科には解放病棟、閉鎖病棟保護室の三種類の部屋がある。

最初に入った解放病棟は昼間は出入り自由、面会も自由だった。
病院内にはコンビニと図書室があり、コンビニでテレビ誌を漁り図書室で漫画を借りた。
これを期に文学に触れるかと思い小説コーナーも見てみたけど、夏目漱石のこころしか置いてなかったのが印象的だ。
患者を刺激する本が置けないのはわかるがそれなら何故こころなのか。
解放病棟では個室で、携帯も持ち込み可だったので、暗い音楽を流し続け医者を威嚇したり、筋肉少女帯を聞いてトラウマで発狂したりした。
ここにいる患者はそれなりに出ていく人が多かった。閉鎖病棟から退院への足掛かりとして入る人も多かったらしい。

ある日入院生活のストレスで発狂した私はナースステーションに殴り込み、そのまま保護室で拘束された。
拘束は最初の数日で、そのあとは部屋から全く出られない期間、決まった時間と入浴時のみ出られる期間、と段階を踏んで出られるようになっていく。
ここでは何も持ち込めず、医者と看護師以外会話出来ず、無の時間が流れて行くばかりだ。
拘束が解かれてから保護室を出るまでの間、本当にすることがなくて、ひたすらベッドの周りをぐるぐる回っていた。
時間をもて余すのが苦手になったのはこれがきっかけだと思う。
ここでは他の患者との交流はない。精神科の看護師は基本的に素っ気なく、「これが人間扱いされないということなのかな」と思うようになった。
そんな環境で、薬に漬かり、私の精神?人格?は主張しなくなる。
元が敏感過ぎたのだろうから、まあ、生きやすくなったと思う。

保護室から脱出したあと、記事にあるような閉鎖病棟に移った。
私の病院は記事の病院よりは環境がよかったように思う。
携帯も預けておくことが可能で、親が面会に来たときに院内のタリーズで毎日LINEをチェックすることができた。
次第に外出出来るようになり、ヴィレバンやディスクユニオンで本を買い込み持ち込んだ。寺山修司の「青少年のための自殺学入門」をベッドサイドにちらつかせ医者を困らせた。
ここではそれなりに患者間の交流があった。
私より若い小中学生くらいの子がいるのが特徴だったと思う。
閉鎖病棟では夜な夜な誰かの泣き声叫び声呻き声が鳴り響いてるというのは日常だった。
小学生の女の子が暴れて拘束されて泣きわめくのは痛ましかった。
記事にもあるように、私より前からいて、きっと出ることはないんだろうなというような大人はたくさんいた。
そして患者同士はみんな優しいというのも大体は合ってたと思う。
それは異常者だけのコミュニティで煮詰まった挙げ句の傷の舐めあいだったのかもしれない。

この入院のおかげでニセモン、曇ヶ原ともに迷惑をかけまくったし二年次の単位を落としまくったため四年生で皺寄せを食らうことになりそうです。
でも見捨てないでいてくれた人がいて、なんとか今まで生きてます。

ブログのみ追記
思えばこのブログを始めたのも入院中、親に知られない吐き出し場が欲しくてだった。
拘束されてたためニズムツアー東京公演に行けず、医者に内緒で名古屋遠征したなんてこともありました。
関ジャニズムは入院中に出たアルバムで、「ゆ」を聞いてよく泣いてた記憶がある。